アイヌと縄文の世界観  瀬川拓郎

最近のDNA研究により縄文人の遺伝子とアイヌの遺伝子が近いことがわかってきました。遺跡や習俗や言語学など多方面にわたる研究から「あえて弥生文化を選択しなかったアイヌの世界観」を考えることで日本列島の原郷の思想を探る『アイヌと縄文人―もうひとつの日本の歴史』(ちくま新書)の著者・瀬川拓郎氏にお話をうかがいました。

 

‐‐北海道のアイヌはなぜ、弥生文化を受け入れようとしなかったのでしょうか?

弥生文化を受け入れようとしなかった理由に寒冷な北海道で稲作や畑作がおこなえなかったからという説がありますが、現在の考古学はこの説に否定的です。本州北端の青森県でも弥生文化の水田が発見されています。北海道でも南部であれば水稲耕作は可能だったと思います。私は弥生文化を受けいれて農民になる道でなく、縄文伝統の上に立って交易のための狩猟に特化していく道を選択したと考えています。
『アイヌと縄文人』では、縄文人の末裔をアイヌだけでなく、獣や魚の殺生を日常とし、自然を大きくかえずに暮らした水稲耕作民と異なる心性をもつ人々を含めて考えていますが、その人々の中に縄文の心性が受け継がれてきた可能性があると私は考えています。

 

‐‐イノシシを津軽海峡を越えてわざわざ取りに行くというところに「縄文イデオロギー」を共有したとお考えになっていますが、そのあたりについてもう少しお話しください。

縄文時代には、黒曜石やアスファルト、ヒスイ、漆など広く流通していますし、抜歯が行われた人骨、土偶、土面、石棒など習俗にかかわるものも全国で遺跡で出土します。これは共通の宗教や儀礼、つまり「縄文イデオロギー」を共有していたといえます。

一定期間飼育した子イノシシを殺す祭りはこれとのかかわりで注目すべきことです。本来イノシシは北海道に生息していないにもかかわらず、縄文遺跡からイノシシの骨は多数見つかっているからです。DNAの分析で東北北部からもちこまれたことがわかっています。イノシシの肉を食べるために本州から持ち込み、飼育までしていたとは考えられません。本州でおこなわれていたイノシシの祭りを北海道でもおこなうために入手したといえそうです。本州の伊豆諸島、佐渡島も本来、イノシシが生息していませんが、縄文遺跡から骨が出土します。飼育したイノシシ祭りは日本列島の全域で、生態系の差を超えて、共有されていたイデオロギーだと思います。北海道の縄文人はイノシシの牙をアクセサリーにしていましたが、それは霊的な力を感じていたからに違いないと思います。

 

‐‐言語についてはいかがですか。共有されていたのでしょうか。

日本列島が祭祀など精神文化を共有していたことや土器の模様の共通性から、「縄文語」があった可能性を示していそうです。
A・ヴォヴィンという言語学者は、アイヌ語が日本全国で話されていた縄文人の言語だったという可能性を古代日本語の研究の上から述べています。
とても面白いのは、九州北部に縄文語が残ったのではないかという指摘です。魏志倭人伝に潜水して貝をとる入れ墨をした海民の姿が描かれていますが、彼らは縄文的特徴をもった人だったといえそうです。考古学で九州北部で見つかる弥生人の人骨は縄文人の特徴を強く見せており注目されていました。それは言語の分野からも研究されています。

 

‐‐キウス周堤墓群など縄文の巨大遺産は弥生文化以降の権力や階級を示すものでなく、聖域や祖霊を祀る場という祈りにかかわるものであったとされていますが、そのあたりはどうでしょうか。

巨大な土木遺産は富の浪費や蕩尽ともいえますが、この蕩尽は富が特定の個人やグループに集中することをさまたげ、権力や階級を生成させない平等のシステムだったということもできると思います。アイヌのリーダーの条件は、気前よくおごったりすることです。蕩尽によって権力を集中させないシステムといえば、北米のポトラッチなどにもみられますね。

 

‐‐そういった縄文の思想に通じるアイヌの人たちが近世に入り、渡党を介した和人とのアイヌの贈与交換システムが失われ、モノとモノの交換を直接せざる負えなくなった時に、無縁化する装置「チャシ」が必要になったということですが、そのあたりをもう少しお聞かせください。

近世の記録に残るチャシは高所に設けられ、戦いのための砦としての役割を果たすものもあるのですが、中には、狭い面積を浅い壕でかこう砦とは到底考えられないようなものも数多くあります。わざわざ大量の白い火山バイで土塁の表面を覆うなど聖域としての性格を強く示すものがあります。そのチャシの中では大量のシカの解体もおこなわれていました。アイヌには祖霊崇拝にかかわるチノミシリとよんで祀っていた霊山があることも考えておかなければなりません。

アイヌの人たちは単なる商品としての交換を忌避する心性がありました。
14世紀の北海道には、日ノ本、唐子、渡党がいました。日ノ本と唐子は和人と密接な交流はなかったようですが、渡党は渡島半島南端の松前から青森の和人のもとへ頻繁に往来し、交易や婚姻をおこない、中継交易民としての性格をもっていました。15世紀以降、和人の進出により渡党がいなくなり、直接、和人と直接商品交換をしなければならなくなった時、無縁化の装置が必要になりました。アイヌが世界観を共有しない和人とのあいだで商品交換をするためにアイヌの神話的な世界との縁を断ち切る装置です。

アイヌの例ではありませんが、気仙沼の漁師で、他の地域の人に神様へのお供えの魚を与える時に一度、家族が買いあげ、それを他の人に与えるという話をききました。魚は神からの贈り物でもあったので、そうした世界観を共有しない外部の人間に神饌の魚を与えるためには、形式的な売買をとおして無縁化するという習俗が受け継がれているようで、その話を聞いた時、現代にも脈々と流れているものを感じました。

 

‐‐土面について、「モガリにみられるミイラの包みに取り付けられたもの」とされていますが、そう思われるのはどうしてでしょうか。モガリの風習は縄文の死生観にもかかわるものなのでそのへんも含めて教えてください。

土面に関しては、まつりの時の仮面であったという説などいろいろありますが、実際、粘土で製作してみると、とても重く、それをつけて動いたりできないと思いました。また出土したものの大きさからいって顔をすべて覆うサイズではないので、おそらくミイラ化した遺体を布などでくるみ、その上から頭部にとりつけ、墓に埋められる際、とりはずしたのだと考えています。

縄文時代におけるモガリの習俗がはじめて考古学的に明らかになったのは、釧路市幣舞遺跡(縄文時代晩期~続縄文時代初頭)です。長期間、遺体を埋葬しないモガリ習俗は縄文時代の社会で広く行われていたようです。千歳市ママチ遺跡(縄文時代晩期)の墓から出土した土面は、ミイラ習俗を物語るものです。上唇の二か所とした唇の一か所に孔があけられています。14世紀までは北海道でもモガリの風習が確認できます。サハリンアイヌにその風習をみることができます。しかし近世の北海道アイヌは、死を忌避するので、中世の間に死者に対する意識の転換があったように思います。

 

‐‐現在、アイヌの文化を展示している旭川市博物館の館長をされているということですが、一般の方はどんなふうに関心を持たれているのでしょうか。またそういった一般の方の反応から今後、縄文文化との関連性をどのように研究していきたいとお考えでしょうか。

アイヌの文化は案外地元でも知られておらず、みなさんご来館いただいて、初めて知ることが多いようです。私は札幌出身で、大学で考古学を専攻した後、旭川で遺跡の事前調査に携わり、平成11年からここで勤務していますが、まだまだ北海道、縄文時代の文化についてもわからないことも多いです。だからこそますます追究していきたいという気持ちにかられます。

アイヌはもちろん、本州の海民や山民などが継承してきたものを縄文文化とからめて日本史をみていくことは、習俗や心性において、新たな発見があり、また未来へ向けての社会を考えていくヒントがありそうです。いろいろな分野からアプローチし、今後も研究を重ねていきたいと思います。

(2016.3.27 インタビュー/文・写真 大日向明子)


【瀬川拓郎氏 プロフィール】

1958年札幌市生まれ。岡山大学卒業。博士(文学/総合研究大学院大学)。旭川市の発掘調査に携わった後、平成11年より旭川市博物館に勤務。現在、同博物館の館長。専門は考古学・アイヌ史。主な著書に『アイヌ学入門』(講談社現代新書、古代歴史文化賞大賞)『アイヌ・エコシステムの考古学』(北海道出版企画センター)などがある。

瀬川拓郎氏 アイヌと縄文

※写真は瀬川拓郎氏と著書

 

【書籍紹介】
『アイヌと縄文―もうひとつの日本の歴史』 瀬川拓郎 著

DNA研究からアイヌが縄文人の末裔であることがわかってきた昨今、列島に脈々と受け継がれている縄文文化とアイヌについて考察。北海道独特の時代区分をアイヌの歴史とともに時代に沿ってわかりやすく解説しながら、最新の遺伝子研究や遺跡・祭祀・交易・言語など多方面から検証し、縄文時代からの列島の世界観を探る。ちくま新書から2016年2月10日に発行。

 

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